ひとりも見捨てないことを、あきらめない

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何のための教材研究なのか

 『学び合い』に限ったことではないのですが、子どもたちはひとりひとり違っていて、理解の方法も違うし、納得の仕方もちがうし、「子ども」とひとくくりにしてしまうことはできません。

 『学び合い』では、「教師ひとりで、多種多様なこどもすべてに対応することは、そもそも不可能である。ひとりひとりの子どもに対応していくためには、クラスの子どもたちの力を借りるしか方法がない」と考えます。

 授業において、どこか一か所の子どもの様子にかかりきりになると、全体のことが見えなくなります。教師の役目は、「その授業において、ひとりも見捨てられることなく、学習する方向(=みずから生きる方向)に子どもたちの集団が向かっていくように、全体にたいして働きかけをしていくこと」です。『学び合い』の授業においては、教師は「木のことはなるべく気にせず、森全体を常に見ること」が求められていると思います。全体の協働をうながすことが最も重要だと私は思っています。

 では、教材研究なるものが不要かというと、そうではないと思います。ただし『学び合い』における「教材研究」は、いままでの教材研究と趣旨が異なるものになるだろうと思います。

 

1 子どもたちがどのように反応するのかは、不断に学ぶ必要がある

 「今日の課題は、教科書の何ページの問題をすべて解いて理解することです。ハイ、どうぞ」と子どもたちに指示を与えても、その後の学び方は、やはり千差万別です。細かい言葉の使い方や、他の生徒に対する教え方、指示の出し方、作業のさせ方など、子どもたちは本当にいろいろな工夫をして、互いに学び合っていきます。

 教師は、教室全体を見回していますので、これらの細かい作業をすべて見ることはできないけれど、でも、みていて「すごいなあ。こんな言い方をすると、こんなふうに反応するんだ」と感心することはたくさんあります。それは「教壇で自分が教えているだけでは絶対に知ることができない、宝の山」だと思います。目の前の子どもたちに感謝しながら、たくさんの教え方や、たくさんの学び方を、子どもたち自身から私達教師は学んでいくべきだと思います。

 子どもたちは、一生懸命に学んでいるのですから、私達も一生懸命に子どもの姿から学んでいかなければならないでしょう。

 

2 子どもたちは教師が考えている以上に有能である。

 「こう考えたら、こういうふうに考えるだろう」という予想以上に、子どもの考えが発展していく場合があります。たとえば「この問題の解答としては、これとこれの2通りの解答があるだろう」と予想していたら、実際には子どもが、こちらが予想していなかった合計4つの解答を見つけてしまった、というような場合です。

 内容的にも、中学校レベルのことを学習しているはずなのに、子どもの疑問や着想が高校レベルのものになっていくということもありえます。子どもどうしの自由な発想と意見交換の結果、いつのまにか学習内容が発展的になってしまうことは十分考えられます。教師としては、「いやー。すばらしい!!」と大げさに反応することが、子どもにとって最も嬉しいことだろうと思います。ことさらにほめたり、さらに解説したりする必要はなく、「いやああ。すばらしい。びっくりした」だけで十分だと私は思います。

 しかし、教師がびっくりするためには、教師自身が学んでいなければなりません。「これは、すごい」と言うためには、その「すごい」内容を知らなければ、そもそも気づくこともびっくりすることも出来ません。「すごいねえ。キミの発想は、それは大学院に進学しないと気づかない、きわめてレベルの高いものだよ」と、びっくりしてあげるためには、教師は「大学院レベルのこと」を知らなければなりません。ひとりひとりの教師がどこまで学ぶべきかは、他の仕事との関連もあるので、それこそ千差万別ですが、教師自身も学びつづけなければならないということは、確かだろうと思います。教材研究を通して、教材の意味するものなどを学びつづけようとする姿勢が、教師には求められると思います。

 

3 「自ら学ぶことは楽しいことである」と伝えていく必要がある

 もともと教師は、勉強するのが好きで、教えるのも好きな人たちです。だから、子どもたちを教えたくて教えたくて仕方ありません。でも、勉強したり教えたりするのは、「普通の子ども」でも、普通に楽しそうにやっています。「ちゃんと教えなさい」とか「ちゃんと勉強しなさい」と強制されたら、イヤになってしまいます。だから『学び合い』では、子どもたちが楽しそうに勉強しているところに、教師がムリムリに介入したりせずに、「つぶやくように」全体をコントロールしていくわけです。

 でも、もともと教師はやっぱり教えたいわけで、「では、どのように教えるのか」というところが、教師の教師としての力量になります。もちろん「なんでもかんでもつめこむ」というのは、不合格。「きれいに整理されてわかりやすい授業」も、ある程度、必要かも知れませんが、聞いている生徒の頭の中身は宇宙旅行になっているかも知れませんし、聞いているだけではおそらくあっというまに記憶から消えてしまうでしょう。

 やはり、ここは能動的、主体的に、しかも多少の失敗を乗り越えながら学んでいくのがもっとも楽しくて定着率も高いだろうと思います。そのためには、俳句のような短いセンテンスで、学習の本質を示してして、子どもたちのココロもつかみ、やる気にさせていくような、教師の言葉が必要です。これを磨いていくことが、とても重要だと私は思いますし、これこそが究極の教材研究だろうと思います。

 

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