ひとりも見捨てないことを、あきらめない

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中学生は未熟ではないと思いました。

先日、親しい信頼できる先生と談笑する機会がありました。ただし、この方は、『学び合い』アクティブ・ラーニングは実践しておられません。いくつかの話題について、短い時間でしたが意見交換しました。他の仕事の合間でしたので、ほんの短い時間です。

 

話の途中で、その先生が、「でも、子どもって未熟だから、言葉が通じないじゃないか」と、サラリとおっしゃいました。

「あれ?・・・」と、感じる自分がいました。

 

「うん、子どもは未熟だから、オレたちが導いてあげなくちゃならないよな」と、サラリとおっしゃいました。

「あれ?・・・」と、感じる自分がいました。

 

たしかに、中学生は未成年で、発達の途上であるのは、そのとおりです。その証拠に、入学したばかりの新入生と、卒業式の3年生とは、それこそ雲泥の差があります。みんな大きく成長します。したがって、相対的に見れば、中学校1年生は、まだまだこれから成長する段階ですので、「未熟」と言ってもよいかもしれません。

でも、実際にひとりひとりの中学1年生と接していると、やはり「ひとりの人間」としか思えません。これは、教育的な言い方ではありません。「中学生といえども、ひとりの人間として接しなければならない(しかし、その実態は、まだまだ子どもである)」という感覚ではありません。言われてみて気づいたのですが、私の中では、ひとりひとりの中学生は、「本当にひとりの人間として尊重すべき存在」です。そのことに、自分自身で「あれ?」と気がつきました。

 

また、言うまでもなく中学生は、成人とまったく同じ言葉は使えません。彼らには、まだ知らない言葉や考え方がたくさんあります。でも、知っている言葉もたくさんあります。ひとりの人間として、相手(=中学生)に自分の考えを伝えるためには、伝える側(=つまり私たち)が、表現を工夫する必要があります。「伝わらないなあ」と思ったのであれば、それを相手(=中学生)のせいにしても仕方ありません。「伝わらないなあ」と思ったら、こちらが工夫して相手に伝えればいいだけのことです。したがって、「未熟だから言葉がつうじない」とは言えません。そういうふうに感じている自分に、気がつきました。

 

いつのまにか、自分は本当に、ひとりひとりの中学生のことを、ひとりの人間として尊重していたんだなあと(いまさらながらですが)、気づいた次第です。