ひとりも見捨てないことを、あきらめない

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もしも自分の担当するクラスに、支援が必要な生徒がいたら

 おそらくどこの学校にも、支援が必要な生徒さんはいると思います。ここでいう「支援」には、いろいろな種類のものがありますし、程度もいろいろです。極論すれば、クラスに在籍するすべての生徒に対して、なんらかの支援が必要であるともいえます。

 どの生徒に、どのような支援が、どの程度必要なのか、そしてそれは具体的にどのような方法で支援するか。また、誰が支援するのか。担任だけなのか、通級指導教室のような専門の先生に協力をあおぐのか、保護者と連携するかなど、本当に、千差万別だろうと思います。

 具体的な方策については、それぞれの学校での実態に即したものになるでしょうし、学校長をはじめとする指導的な立場の方にきちんと指導を仰ぎながら実施することになるでしょう。したがって、ここでは個々のケースに立ち入った具体的なことは、(この文章では)述べません。 

 

生徒の将来を考えるとどうなるのか

 

  ここで述べるのは、「個々の生徒に対する支援を考えるときに、このような視点も必要かもしれません」という内容です。それは、支援を必要とする生徒が大人になったときには、まわりには先生は居ないが、仲間が居るということです。

 私を含めて、先生という立場の者は、支援が必要な生徒に対して、実際に支援していくときに、2つのアプローチの方法があると思われます。

  • ひとつは、先生という立場の者が、その生徒に直接的に働きかけて、その生徒を直接支援するという方法です
  • もうひとつは、支援が必要な生徒のまわりにいる、他の生徒に働きかけて、まわりの生徒がその生徒を支援していくようにうながすという、間接的な支援の方法です。

 もちろん、どちらも必要です。直接的な支援が必要であれば、直接的に支援すればいいし、間接的な支援が必要であれば間接的に支援するだけです。でも、どちらか片方だけでは十分な支援にはならないだろうと思います。

 私は個人的には、「教育現場の傾向としては、間接的な支援の方法が不足している」と感じています。なぜなら、上に述べたとおり、生徒が大人になったときには、その生徒の周囲には先生は居ません。居るとすれば、生活を共にする家族(仲間)、仕事を共にする仲間、仕事を離れた楽しみを共にする仲間、困ったときに頼りにできる仲間だろうと思います。

 したがって、支援を必要とする生徒(それは、学級のほぼすべての生徒かも知れません)が他の生徒との関わりながら、お互いに支援し合えるような関係をつくることが重要だろうと思います。

 

「できっこない」と考えないこと

 

 上のように述べると、「そんなことは、できるわけがない」とか「そうするには、ものすごい綿密な指導が必要でとても大変である」というような声が聞こえてくるような気がします。でも、とにかく、現実の問題として我々教師は生徒たちが大人になったときには近くにいないという事実は、変えようがありません。

 このことに目をつぶって、「できるわけがないから、とりあえず自分が支援しておく」と考えるのは、やめた方がいいだろうなあと思います。そうではなくて、同世代の仲間としてお互いに支援する必要があるということをきちんと生徒に伝え、実際に支援することを体験し、多少の失敗を乗り越えながらノウハウを修得していく方が、結果的にすべての生徒の幸せにつながるだろう、というのが私の考えです。

 

では、具体的にどうするのか

 

 上でも、ところどころで述べていますが、実はクラスに在籍するほとんどの生徒には、なんらかの形で支援が必要です。その支援の種類と程度が違うだけです。ですから、学級の生徒たちに、「皆さんには、それぞれ助けが必要です。先生も、もちろん助けます。先生だけで助けることができなければ、他の先生にも協力を求めます。皆さんもお互いに助けるようにしてください」と素直に伝えるところから始まると思います。

 「なあんだ、こんなことなら、いつも子どもに言っています」と思うかも知れません。でも、その言葉は、生徒が大人になったときのこと、つまり今から20年後、30年後のことを頭に思いうかべながら言っているでしょうか。あるいは、「どうせ、できっこない」という気持ちが隠れていないでしょうか。「生徒には助け合うことはできないし、助け合う方法は自分が教えなければ何もできない」と考えてはいないでしょうか。生徒たちは、このような教師の「本心」を的確に見抜くと思います。そういう意味で、本当に本心から伝えていかなければならないだろうと思います。

 

やってはいけないこと

 

 「教師が支援する」という場合にも、「生徒がお互いに助け合う」場合にも、やってはいけないことがあります。それは、「かわいそうだから手伝ってあげる」と考えることです。よく言われることですが、「かわいそうだから」ではなく、「不便な部分があるのでそれを補うために」と考えるのがベターだろうと思います。

 ただし、生徒によっては「かわいそう」「かわいそう」と言うのがクセになっている生徒もいます。他の生徒に対しても「かわいそう」、自分自身に対しても「かわいそう」しか言えない生徒です。「かわいそう」以外にも、さまざまな理解の仕方があるにも関わらず、なんでも「かわいそう」のひとことで済ませてしまいます。

 このような生徒に対しては、「なるほど、あなたは、かわいそうと考えるんだね。先生の考えはちょっと違うけれど、あなたの考えはあなたの考えとして理解できるよ」と、ときどき伝えておくのがよろしいかと存じます。我々教師が、あーだこーだ言わなくても、まわり生徒との具体的なやり取りを通じて、「世の中には、かわいそう以外の、合理的なやり方や考え方があるんだ」ということを、少しずつ学んでいきます。

 

成功体験をつみかさねながら、本人が自立することが大切

 

 支援が必要な生徒が将来、自分の力で生きていけるようにすることが、我々教師の仕事だろうと思います。お互いの良さを認め合い、不便に感じている部分は補いあい、力が不足している部分はお互いに力を集めて、それぞれの生徒が自分の望んでいることを実現していくことが大切です。これは、大人になってからできることではなくて、目の前に生徒が、目の前の授業や学級活動や課外活動を通して、実際に体験していくなかで「オレにもできるんだ」という成功体験を積み重ねていくことが大切だろうと思います。

 そのための具体的な方策については、このブログの文章をお読みいただいているたくさんの方とも、さまざまな形で意見交換、情報交換をしていきたいと考えております。どうか、よろしくお願いいたします。

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