「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ」ことについて
標題の語句は、文部科学省から中央教育審議会に対する諮問「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について」に現れる語句です。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1353440.htm
「課題の発見」とは、「まわりの状況をみて、何か問題なのかを考え、その問題を解決するためにはどうするばよいかを考え、これをやれば解決できそうだという見通しをつくっていくこと」だと、私は思っています。
いままでは、生徒たちは与えられた問題だけを解いていました。そしその問題には答えがあることが保証されていました。正しい答えに、速く正確に到達することが、すばらしいこととされていました。
しかし大人になって社会に出ると、正しい答えが存在するような問題ばかりではありません。どうすれば解決につながるのかが分からないような問題がたくさんあって、でも何とかして解決策を見つけなければなりません。このような問題を「答えのない問題」と呼ぶことがあります。
例)教育振興基本計画
http://www.mext.go.jp/a_menu/keikaku/detail/__icsFiles/afieldfile/2013/06/14/1336379_02_1.pdf
「答えのない問題」を、教師が用意して生徒に与えるのか、それとも生徒自身が「答えのない問題」を自分で発見していくか、については、後者の方がレベルが高いと思います。上の「教育振興基本計画」においても、「答えのない問題」を発見するのは「高等教育段階修了までに身に付ける力」の中に入っています。
しかし少なくとも教師は高等教育段階を修了しているはずですから、ア、教師自身は「答えのない問題」を自分で発見することができる。イ、教師は生徒に「答えのない問題」を与えて、その問題を生徒が解決するために支援できる、ことは求められるだろうと思います。
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では、このような「答えのない問題」を発見したり、解決したりする力は、どのようにして身につくのだろうかという問題があります。そもそも、教師自身がそのような力をどのようにして身に付けるのかが最大の問題だと私は思います。
ところが実際に生徒たちと一緒に教科の学習をしたり、学級のさまざまな課題に取り組んでいると、「もしかすると、意外と簡単に取り組めるのかも知れないと感じます。なぜならば、「答えのない問題」は、目の前にいくらでも転がっているからです。
数学では、「問題の答えはひとつに決まっている」と言われます。問題の答えは決まっているかも知れません。けれども、その問題が解けるようになるまでの「理解の道筋」は人によって様々です。
目の前に「わからない生徒」がいるとします。何とかして、理解してもらわなければなりません。けれども、その生徒がどのような道筋で理解に至るのかは、わかりません。「友達が理解できるように教えるにはどうすればよいか」は、まさに答えのない問題です。
また、学級のなかで、「行事を成功させよう」とか「忘れ物を減らそう」という課題に取り組むことがよくあります。しかし、「どうやったら行事が成功するのか」、「どうやったらクラスの忘れものは減るのか」というのも、答えのない問題です。
このように、「答えのない問題」は、身の回りにたくさん存在します。そういう問題に取り組んでいけばよいのだろうと思います。
※※ ⇒ 課題の発見 へつづく