ひとりも見捨てないことを、あきらめない

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生徒の自由のために、先生は壁にならなければならない

 私は、生徒には自由であってほしいと願っています。それは、既存の考え方の枠組みや、既存のルールや、既存の技術などをさらに超える、創造性豊かなものを産みだしてほしいという気持ちです。

 もしも、生徒たちが、既存の考え方にしばられ、いままでのルールを変更しようとせず、与えられた技術をそのまま使い、新しいものを産み出そうとしないのであれば、生徒たちが今後生きるであろう社会は、とても退屈なものになり、競争力もなくなり、国全体として衰退してしまうだろうと思います。

 そういうわけで、ぜひとも、生徒達には「自由」であってもらいたいと思います。もちろん、私のブログをお読みいただければ、私が「なんとか生徒達には、多少なりとも失敗しながらも、その失敗から学んで大きく成長してほしい」と願っていることは、おわかりいただけるかと存じます。

 

※注意。私自身は、熱烈に願っています。しかしながら、私自身の力不足により、上のことが十分に実現できていないことも、承知しています。

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 ところで、生徒が自由を求めるようにするためには、逆説的ですが生徒に自由を与えてしまってはダメだと思います。学級を開くときや、年度の最初に授業を始めるときには、私は堂々と「すべての権利は私が持っている。なぜならば、皆さんがどのような集団なのかがまったく分からないからだ。皆さんが自分達でできるようになり、また、自分達でやろうという意欲をもち、そして、自分達で困難を乗り越えることができるようになれば、私の持っている権利は、皆さんに移っていく。しかし、現時点ではすべての権利は私のところにある。一切の、わがままは許さない」と宣言します。

 たとえば、学級で「席替え」をします。この席替えは、私が担任するクラスでは、通常4週間に1回、定期的に実施します。また、そのために、他の学級担任に事前にお願いして、比較的短期間で繰り返し席替えをすることを認めていただきます。

 4月当初は、生徒は名簿順に並んでいることが多いと思いますが、その後の4週間ごとの席替えは、最初の2~3回は担任の私がすべての権限を持ち、生徒には一切関わらせません。このことに関しては「とことん専制君主」を演じるようにしています。

※「演じる」というところがミソです。

 

 席替えに関しては、次第に生徒の自主性を認め、2学期の後半には実質的に生徒にすべての権限を与えるに至るのですが、最初のうちは、とにかく担任は「壁」を演じます。そして、その壁にぶつかり、乗り越えることを生徒に求めます。

 では、どのような「壁」を演じるのかというと、「キミたちは、自分の好き勝手で席替えをしたいのかも知れないが、キミたちの方法では、【ひとりも見捨てない】ということが実現できるのか?。少なくとも担任は、考えに考えて、なんとかして【ひとりも見捨てない】を実現しようとして新しい座席を考えている。もしも文句があるなら、担任が考えている以上に【ひとりも見捨てない】座席をつくってみなさい」という形で演じています。

 ここでは、席替えについて述べましたが、他にも、いろいろな形で担任は「壁」になります。どの「壁」にも【ひとりも見捨てない】と書かれています。生徒は、自ら、これらの壁にぶつかり、挑戦し、そして権限を自らのものにしなければなりません。

 生徒が獲得した自由の先には、【ひとりも見捨てない】学級があります。

 

■ ■ ■

付記。

  1. もしも、生徒たちが以前の学年で十分にアクティブ・ラーニングを実践しているのであれば、上のような手続きは必要ないか、あるいは、非常に短期間で終了するだろうと思います。
  2. ただ、どんなに優秀な生徒たちであったとしても、本当に大丈夫なのかどうかは、実際につきあってみないと分からない部分もあろうかと思います。ですから、一番最初は、「申し訳ないけれど、いったんすべての権利は担任に持たせて欲しい」とお願いするだろうと思います。
  3. 私自身は、生徒たちに「自分を超えて欲しい」と願っています。私は「壁」になりますが、私の目的&目標は「私を超えること」です。これはお題目ではなく、実際に「先生を超える」という経験ができるように、工夫しています。